利水・治水のあゆみ
〜芦沼から乾田化へ

「農業といういうものは、
 日本のある地方にとって死に物狂いの仕事の連続であったように思える」

司馬遼太郎の「街道を行く〜潟のみち」の冒頭の一節である。

亀田郷一帯を人々は「芦沼」とよび、「地図にない湖」とも表現した。農民は冷たい水に腰までつかりながら田植えや刈り入れの作業を行っていた。しかし、稲は半ば水草のように浮いて育ち、満足のいく収穫は得られない。また海が荒れると海水が川を逆流し、稲を腐らせてしまう年もあった。農民は食料を得られないという不安を抱きながらの生活を強いられてきた。

このように、亀田郷は戦後まもなくまでは信濃川下流域で最も開発が遅れた地域でした。海面以下の土地が約2/3をしめ、日本海の潮位に左右される低湿地帯でした。このような非近代な土地条件の中において、昭和16年、食糧確保という戦時行政の一環として統一機械排水を主体とした、国営土地改良事業が着手されました。基幹排水路を建設し、ここに集められた水をさらに大規模排水機場を建設して信濃川、阿賀野川に排水するという大規模な事業でした。工事は戦後まで続き、ついに昭和32年に乾田化に成功、かつて「芦沼」と呼ばれた水面は広大で緑豊かな大地へと変貌したのです。

以後の亀田郷は新潟市の急激な都市化に対応し「都市と農村の調和」を前提に、自然環境に考慮した快適な生活環境の整備と先進的技術による近代的農業経営の確立をめざしています。
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